カエルは水に入るとき決して音を立てない。
であるから、芭蕉のかの有名な俳句は虚構である。
そんなことがまことしやかに語られているので、田舎育ちの自分の記憶を疑った。
たんぼのあぜ道を歩きながら、カエルが立てる水音をごくあたりまえのようにきいていたような気がするし、あたりまえすぎて、なおさらか、いったん疑念に駆られると、はたして、という気持が胃の腑へ重たくのしかかってくるようであった。
ひとにたずねてみる、そのひとは娘に話し、娘は友達からも回答を得る、ほんのささやかな人脈だがたしかにうねって、返ってきた答えは、
「わたしもきいたことがある」
おそらく、たずねられたひとは、「え?」とおもうのだ。なんでそんなあたりまえなこときくのかと。
雨つづきなら傘をさしてでも近くのたんぼに出かけて真相を確かめたいとおもいながら、いまひとつ気がのらなかった。
だがついに意を決して出かけていくことにした。胃に重たかったものが胸に詰まってきた。
水音を立てないなんてウソである。ウソをのさばらしてはいけない。そこまでむきになったわけではない。
むかったさきは、たんぼではなく、となりの町の自然観察園だ。安直だが、まずここではたらくひとにきいてみよう、そうかんがえた。気ぶっせいな悪天候がつづいたあとの、なんともぎらぎら日照りの正午過ぎだ。
ネイチャーハウスの玄関でスリッパに履き替えて中へ入ると、ちょうど事務室からうら若い女性が出てきた。山登りにでも出かけるような格好だが、それがこのひとたちの園内での服装だ。さっそく話を切り出すと、
「種類にもよるかもしれませんね」という。
水音を立てるものと立てないものの種類を知りたいのではない。
質問の趣旨をあらためてせつめいすることは、つまり文学的な話をすることなのだが、それはおのれの恥部をさらすようで苦痛なものだ。が、趣旨などとかしこまらないことにする。質問の理由を述べるのは礼儀のうちかも知れない。
芭蕉の名を出した。
そのときの相手の微苦笑は、表現しにくいから端折ってしまうが、水の音をきいたことがあるとおっしゃるならばそれで解決、と答えを待った。
図書閲覧室があり、水槽なども置いて、小魚などを泳がせている。ビデオを閲覧させるブースもある。そんな建物の前庭には水草を栽培するコーナーがあって、木箱の池がいくつか並び、何種類もの水草が季節のめぐりをかたり、あるいは沈黙してしまう。そこでポシャンとカエルが音を立てる。
産卵するには狭すぎるくらいの木箱の池で、
「ダルマガエルがポシャンと音を立てる」
と彼女は笑顔でいう。
ポシャンという擬音は予想外で、幼児語をきかされているような気がしたが、園内で講習会だのなにかの催し物でこどもたちに説明する場面があれば、やはりそのとおりのことをいうのだろう。
ダルマガエルといえば、ヒキガエルの仲間で大型の部類に入る。体型がぼってりとして、跳ねるのは不得意にみえる。ポシャン、というのは飛び込むのではなく、風呂にでも入るみたいにのっそり水に浸かるようなことかもしれない。
音はポシャンでもポチャリでもよい。
それでとりあえず、かの無音説がくつがえる。
しかし、それみたことか、などといばるほどのことでもない。
なるべく自分の目と耳で確認しておきたくて、園内の森を歩いてみた。池がいくつかある。周りがガードされていて、水際にいける場所は限られている。いつもなら、カワセミの姿を期待して歩くのだが、きょうはカエルのポシャンだ。期待するとか、探索するとか、まずしい野心があっては、わびもさびもない。
園の外に出た。炎天下の水田地帯だ。
そうしてあぜ道を歩き始めたとたん、体長一センチあまりのカエルが二匹、たんぼの中を跳ねているのに出会った。からだが半分だけ水に浸かっている。水は五十センチくらいに伸びた苗の根もとをやっとこさ、ひたしている。カエルが跳ねればとうぜん水音がする。
用水路の水は澄みきって、ドジョウがいっぴき、底でじっとしているのがみえる。ひとのけはいに反応してぐるりとからだをよじり、どろのけむりをあげる。これも水音を立てるが、古池や…の虚構として仕立てるには無理がある。
それから数十メートル歩くうちに、なにかが飛び込む音をきく。
「ああした水音を立てて飛び込むものに、カエル以外になにがいるというのか」
となかばいらだちながら自問してみる。
みどりのいろもあざやかな中型のトノサマガエルが小さな流れを横切っていく。飛び込んだのを目撃したわけではないから、これもなかったことにしておこう。
そうして、つごう三百メートルほどあぜ道を直進して、小川のほとりに出る。ウシガエルが鳴いている。密生する葦のあいだで、二匹、声を立てている。こいつが水音を立てないように川の流れに身体を沈めていくさまを思い描くのは容易である。跳ねるよりも、のそのそ歩くほうが得意のようなやつらだから。
それから小川に沿って歩き、もうひとつ別の用水路をみていく。そして息を呑んだ。メダカの群れだ。ややや、とおもった。こんなところに、これほどに!
観察園の<こぶなの流れ>と称した流れにはメダカがいる。園内は昆虫の捕獲も植物の採集も禁止されている。ただし園の入り口の芝生の広場で昆虫用の網を使うのは許されている。もうかぞえきれないくらい通っているが、禁止を無視している人間をここでは目撃したことがない。かってに観察園といっているが、ほんとうの名称は<牛久自然観察の森>だ。
カエルのことなどどうでもよくなった。網と入れ物を持って用水路のこの場所へくるとしよう。そのことにたわいもなく夢中になっている。いえの水槽にいるのは、モロコとオオタナゴだ。まえまえからメダカがほしかったのだが、観察の森以外では、牛久沼をはじめ、小貝川、旧小貝川、利根川、乙戸川、小野川、新利根川、大正堀、江川、破竹川……と、魚釣りができる流れは近隣にたくさんあるのに、メダカの姿は見かけない。あるいはどこかにいるのかもしれないが、小ぶりの魚といえばクチボソの影だ。
それなのに、なんと……と絶句してしまう。
頭のなかをメダカの群れでいっぱいにしてきびすを返し、観察園にもどると、こぶなの流れへとむかった。学校は夏休みに入っていて、たまにこども連れがちらほらみえるが、ぜんたいにひとけがない。正午という時間帯のせいもあるだろう。こぶなの流れのほとりにはあずまやがある。そこにひとがいるのもいまだかつてみたことがない。
二人の女の子を連れた母親に出くわし、たずねてみようという気もおきたのだが、しかし気持をおさえて正解であった。
<カエルが水の音を立てるのを聴いたことがありますか>
見ず知らずのひとに対して、これは、いかにもいかがわしい質問である。わいせつ目的、と曲解されても仕方がないくらい、いかがわしい。
そしてなんと、そんなおもいをめぐらせた直後、みたのだ。カエルが威勢よく水に飛び込むのを。ほとりの草むらを三十センチから四十センチの高さに跳ねあがって、パシャッ。しっかり成長したトノサマである。空中に跳ね上がっているあいだに、トノサマと確認できたのである。むこうはこちらを警戒して飛び込んだのだろうが、跳ね上がったカエルを見たこちらもびっくりした。
こぶなの流れは、たった数十メートルの流れなのだが、こぶなが泳ぐにも足りないくらいの浅い流れである。こぶなの姿はみていない。メダカのほかに、蛍の棲息には欠かせないというカワニナがいる。カワニナが這って歩いたあとが水の底の泥土にいくつもの筋になっている。水の底のみみずばれである。
流れは池に通じている。池には大型のおたまじゃくしがいる。やつらはたいてい水辺に群れをなしていて、ひとが近づくとけたたましい水音を立てて深場へ逃げていく。
カエルは水音を立てない、という説に、せいぜい後ろ足が生えたばかりの、まだまだガキのやつらが笑いころげる。
2006.7.28