甲田四郎詩集『送信』抄
『送信』目次


鍋の底


原発事故から二年、放射能の詩を書く人は減る、いずれ日本の詩は(ナ
ニもなかったごとく)元に戻るだろうと誰かが言ってえらいさんが喜ぶ
鍋の底。そうかいと初夏の澄んだ空から声がする、放射能値がどの位だ
とこうキラキラするか知ってるか?

見たい映画が始まる時間に遅れまいと急いで歩いた、前を行く背の高い
若い男に追いついた、すると若いのが急ぎ足になって私を引き離す。私
は七七歳胴長短足競争するつもりはないが時間がないのだむやみに足を
動かした、また追いついたしばらく並行して歩いた、そしたら若いのが
たまりかねたように駆けだして行った、ばかだねえ。翌日私は膝が痛く
て曲げられない、一卜月経ってもまだ痛い、ばかだねえ。

デニーズの外階段を若い男が上っていった、その後から若い女がカンカ
ンカンカン速歩で上がっていく、追いかけていくついていく、スカート
を翻してよそ見もしないでカンカンカンカンその軽さ、あんなのさない
男に後光でもさしているのか、これから先の人生が決められてしまった
よう、いいのかねえ。

えらいさんの後をそうやって父母の世代はついていったのだ誰も彼も、
えらいさんの背中は後光がギラギラ新聞ラジオがバンザイバンザイ先は
明るいいいことばかりとしきりにはやす、周りを見ればついていくかい
かないか見ている目目目、いいことなんかひとつもなかったのに。今で
も見ている例えばノシロさんのおばさんが、私が広場の向かいのポスト
にハガキを入れて来たら店から出てきて、あんたどうして毎日ポストへ
行くのだと。大きなお世話だと言えばそれを誰かに告げ口する。

六九年前四五歳で四人の子持ちの父は田舎に疎開するのに家財道具を積
んだリヤカーを自転車で引いて片道九〇キロを四回往復したという。い
つ空襲があるか判らない町を野を橋を土手を自転車をこいだり押したり、
木炭バスをオート三輪を自転車を追いかけていたカーチスからグラマン
から逃げていた、粗末な食べものと貧弱な体格とそれだから得た我慢強
さとねばり強さでへとへとになって、目目目の間を追いかけていた逃げ
ていた、逃げ場のない鍋の底をぐるぐる、ぐるぐる。