甲田四郎詩集『くらやみ坂』抄
『くらやみ坂』目次


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叩く男



空いた電車に空腹で座っていると
私に似た汚ないジャンパーの男がやって来て
私を見据えて実印を持っているかと言った
ちょうど持っていたのでギクとした
聞かないふりして目を背けたら
男はドアのところまで行って
ドアに言うには
寅さんは実印を持ってないんだ、うん
おいちゃんもおばちゃんもヒロシもさくらも
ミツオもタコ社長も工員たちも
みんな実印を持っている
だけど寅さんだけ実印がないんだ
聞かないふりをしながらなるほどと思ったが
なぜだか判るか? と急に声が大きくなって
拳でどんとガラスを叩いた
寅さんとおれだけ実印がないんだぞお
もうどうでもいいんだあ寅さんもおれもお
檻の柵を叩くがごとくどん、どん、どん、どん
信号が赤になり電車の中が赤くなり
「無意識の領域の行為には刑事責任がない
刑事ではないが民事で賠償責任はある
責任はあっても能力がない」
男がこっちを見た
だが電車が止まり戸が開くと明るくなり
おれを危ないと思ったかい、手を上げて
お騒がせしましたね、と言って降りてしまった
恐いものがないだけのようだ

私は貴重品袋の中に実印がないのだった